lochtext

http://us.battle.net/sc2/en/profile/2312833/1/lochtext/

「日常の謎」が「日常系」ではない、ということについて−「氷菓」と「ハルヒ」

 ※原作4巻までのネタバレが含まれます。

 古典部シリーズのミステリにとっての意義に関する議論が非常に面白かったのですが、後期クイーン問題を語れるほどには古典ミステリを読み込んでいないのでちょっと方向を変えて書きます。

米澤穂信の話|青春ミステリの条件と古典部シリーズ - 雲上四季

古典部シリーズの最新刊『遠まわりする雛』によって、古典部シリーズの主人公・折木奉太郎は「探偵の敗北」の先に行けるのではないかという可能性が見えてきたのです。

 結論を言ってしまうと、それは成長です。
 後期クイーン問題における探偵の敗北と、青春ミステリにおける「探偵の敗北」を分けるものは、探偵の、探偵としての完成度だと思います。後期クイーン問題において探偵は、完成された探偵であるがゆえに敗北しますが、青春ミステリにおいては、若さゆえに負けるのです。

 「愚者のエンドロール」では『女帝』に手玉に取られ最終的には敗北を喫したホータローですが、「クドリャフカの順番」では、真犯人を追い詰めこそすれ、部誌の販売に協力させるだけで、「十文字」に古典部が敗北するという見せかけの結末を演出するところまでやってしまいました。そして古典部としての本来の目的であった「部誌を売り切る」という目的はきちんと達成しています。最後の章タイトルもこれに順じて、「愚者」の「打ち上げには行かない」から「クドリャフカ」の「そして打ち上げへ」になっています。この間のホータローの成長には目を見張るものがあるでしょう。「遠回りする雛」の主題は、ホータローたち古典部メンバーの成長そのものでした。そして「成長」は、青春小説における古典的なテーマでもあります。

 「古典部」シリーズでは明確に作中の時間が進んでいきます。それ自体は、日常系(wikipediaだと空気系と呼称されていますね)の代表である「あずまんが大王」にも、「けいおん!」にも存在している要素でした。しかし、これらの作品の主題には、「登場人物たちの成長」は(明確な形では)含まれていません。やや難解な表現を使えば、死にゆく体と、傷つく心を持ったキャラクターによって成立した漫画・アニメ(と、それを原点として成立したライトノベル)は、しかし作品制作上の要請や、読者の求めに従って「成長を留保」するようになってきてしまったのです。

 また、長寿作品になればなるほど、ミステリというジャンルの構造上、探偵役を「成長」させることは難しいことでした。成長のための通過儀礼であったはずの「非日常」はその本来の役割を放棄し、物語の各場面場面で「殺人事件」という非日常を描いても、コナンも金田一少年も成長しません。しかし、古典部シリーズではほんのごく僅かな「日常の中の非日常」を描きながら、探偵役を成長させてみせました。これは「日常系」には決してできない芸当です。

 京都アニメーションの名を最も世に知らしめた「涼宮ハルヒの憂鬱」でも、青春小説である以上本来は主題の一つとして「成長」が挙げられていたはずでした。「憂鬱」と「消失」におけるキョンの心情の描写からもそれは明らかです。しかしアニメーションとして「涼宮ハルヒ」が世に出た時、待っていたのは彼らSOS団の変わらない日常を求める圧倒的な声でした。今の「京都アニメーションハルヒ」は、言ってみれば冷温停止状態みたいなものです。彼らを成長させたくても、現実にはそれはできないのです(マーケティング的な問題と、作品進行上の問題で)。

 それゆえに「氷菓」は、「ごくわずかな非日常を含む学園モノの日常」を描きつつ、長期的には登場人物たちの成長を描くという、いわば「ハルヒ」の焼き直しでもあります。そういう視点から見ると、「氷菓」制作が京都アニメーションというのもそれなりに頷ける話のような気がします。

 まとめます。「日常の謎」を扱うストーリーであった「氷菓」は、しかしキメラ的な存在であった「日常系」のストーリーラインを放棄し、古典的な主人公たちの成長を扱う青春モノに回帰しています。もちろん10年前に刊行された原作が日常系の流れを踏まえているわけではありませんが、それを今アニメ化したのは、またしても「日常系」への京アニからの回答であるのでしょう。

 作り手側が、ここまでを織り込んだ上でどのようなバリエーションを見せてくれるのか、楽しみです。


 追記:
ライトノベルミステリの困難さ - 小説☆ワンダーランド

そもそもミステリというジャンルそのものの宿命として、ある程度の読解スキルと注意力を読者に要求するというのがあります。これが「気軽に読み流せる」ライトノベルの魅力を大きく殺してしまっているのです。

 これはミステリ読み特有の視点じゃないでしょうか。「謎を解いてやろう」と意気込んでミステリを読む必要は、ほんらい全くないのです。登場人物たちが謎解きに興じるさまを眺めるだけでもミステリを読むという行為は成立するし、ライトノベルとしての読み方はむしろそれが普通でしょう。米澤作品はむしろ、そのようなガチなミステリ読みを意図的にミスリードしつつ、ライトノベルとしての体裁を崩さないことをひとつの目的として書かれているように思います。


 追記の追記:
はてなダイアリー

角川書店は「Another」「氷菓」と今年に入ってから立て続けに「ライトノベルではない普通のミステリ」をアニメ化している。

 古典部シリーズは萌え要素こそ大して含まれていないけどれっきとしたラノベのような……。まぁ今の感覚からしてラノベと言うよりは「青春小説」「ジュブナイル」とかのカテゴライズのほうが正しいんでしょうけど。

今のアニメは(それがいいか悪いかはともかくとして)インパクトがあるかどうか、もしくはその作品を見て皆で盛り上がれるかどうかが価値基準になってしまっている。まどか☆マギカのマミさんの死亡シーンにしろ、涼宮ハルヒハルヒダンスにしろ、ファンがネタにして盛り上がるためのツール、もっと悪く言うならアニメをダシにしてお祭り騒ぎで盛り上がっている感じが強い。アニメDVDの売上の覇権争いなんてまさにその最たる例だろう。

 これはその通りですね。ただ、角川が自分からこの戦略を放棄して「氷菓」をアニメ化した、という予測は何を根拠にしているのか不明なので放置しておきます。「氷菓」のアニメ版の意義は、前掲のように「成長物語としてのハルヒの焼き直し」をやることにある、というのが自分の結論です。

はてなブックマーク - 角川はなぜ「氷菓」をアニメ化したのか? - あにめもっ!

id:AutoAuto
ジュブナイル小説もどきに回帰してるだけに見えるが、これ保守化じゃね?しかも邦画、日本のテレビドラマが総崩れしてる時にフツー系のドラマ回帰って、大博打だろ。アニメ業界の墓石を用意しといたほうがいいな。 2012/05/11

 ジュブナイルっぽいアニメが少ないから氷菓を持ってきたのって、そんなに大博打ですかね? 青春モノとしては保守的なプロットだというのはわかりますが、ミステリとしては上記のように非常に面白い問題意識を含む作品です。邦画とかドラマとかもどう関係あるのかよくわかんないし……(笑)。