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lochtext

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「コクリコ坂から」におけるLSTの存在理由、または東浩紀はいかにしてオタクを止めて扇動する側に回ることにしたか

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)


大塚英志氏の新著である「物語消費論改」に、ちょうどテレビ放送されたばかりの『コクリコ坂から』について言及している箇所があったのでまずは長めに引用しておきます。

コクリコ坂から』―「寓話」に侵入した「歴史」

(中略)さて、スタジオジブリの最新作『コクリコ坂から』(2011年)もまた「物語の構造」の水準では「寓話」としての美しい構造を持つ。それは先に述べたジブリの定型の反復としてある。この作品は1963年、高度成長下の日本を舞台にしているが物語構造そのものは『千と千尋の神隠し』と全く同一といってよい。

1.ヒロインは父と死別し母と離れて生活している。
2.祖母が保護者代わりであり、本名は「海」だが「メル」の愛称で呼ばれている。
3.「メル」は下宿をきりもりする一方、高校の講堂の存続のために汚れた建物を率先して掃除する。
4.風間という少年は「メル」が毎日、下宿で信号旗を挙げていることを知っている。
5.メルは講堂の存続を直訴するために高校の理事長の許に行く。さらに風間の出生の秘密を確かめるため船に飛び乗る。
6.風間がメルの兄ではないことが明らかになり二人の恋は実る。

このように『コクリコ坂から』は物語の水準ではジブリの定番である少女のビルドゥングスロマンとして設計されている。一方、舞台は1963年、すなわち「昭和」時代だが、現在の日本では「昭和」は徹底して古き良き時代、ノスタルジーの対象としてのみ受け止められている。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)が代表するように「昭和」という表象から今や「戦後」、すなわち15年戦争と地続きの時代であるという認識は失われている。
(中略)
しかし、ぼくが衝撃を受けたのは以下の場面だ。ヒロインは理事長とこう会話する。

 徳丸、突然、海に目を向け、
徳丸「君は何年生?」
海「二年です。松崎海と申します。週間カルチェのガリ切りをやっています」
徳丸「お父さんの仕事は?」
海「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争のときに死にました……」
徳丸「LST?」
海「ハイ」
徳丸「そうか、お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう。いいお嬢さんになりましたね」
宮崎駿・丹羽圭子『脚本 コクリコ坂から』2011年、角川書店)

(注)ここでの「LST」と、それにまつわる歴史については右のエントリ「『コクリコ坂から』 忘れ去られたモデルとなった事件 :映画のブログ」などをお読みください。

(承前)
観客たちはこのようにして、「ノスタルジー」の中で展開する少女のビルドゥングスロマン敵な物語に酔いかけていたところで、不意に、忘却していたどころかその事実さえ知らない朝鮮戦争と日本の関わりの「歴史」を突きつけられる。
しかも、それについてそれ以上、何も作品は語らない。
ただ、受け手に違和だけは確実に残し、そして受け手はその「違和」の意味を受け止められない自分がいることに気づく。仮想サーガ的な「大きな物語」に安易に回収される一方「歴史」を直視することからこの国全体が遁走し、そしてミニマムな私語りのみが過剰に紡がれる時代にジブリは不意打ちのように「歴史」を描いた。考えてみれば、『借りぐらしのアリエッティ』(2010年)で「小人」を描いた時点で「歴史」への回帰という一つの予兆はあったのだ。イギリスの児童文学を日本に置き換え、そしてこの国で「小人」を滅びゆく存在として描いた時、それはこの国の近代史の暗部としてのアイヌ民族をめぐる暗喩となる。「小人」からコロポックル、つまりアイヌ民族の神話は本当なら容易に連想されなくてはならない。このようにして、『コクリコ坂から』においてジブリはいつものように「寓話」を語る手だてで、日本を覆いつくした歴史の忘却に強引に亀裂を入れたといってよい。

実はこの文章は新規書き下ろしされたパートのラストに当たる部分で、それまでの文章を読んでいないとここで言う「寓話」「サーガ」の意味は掴みかねるところがありますので、簡単にここまでの内容をまとめておきます。

  • 「序」:1980年台に机上のマーケティング理論として書かれた「物語消費論」が、webの登場によってプロパガンダの主体を失った「大衆」の「大衆」による扇動として現実のものになった。
  • 第一章:大塚自身が「ルーシー・モノストーン」というマーケティング的な「仕掛け」の中で、「物語消費」というスタイルの持つ力とその危うさに気づく。web時代ではさらに個々人が「物語」による動員に対するリテラシーが必要。
  • 第二章:80年代はポストモダニズムの時代ではなく、中上健次を代表とするように現実の「歴史」や「固有性」から切り離された架空の「サーガ(年代記)」として、「大きな物語」が復権した時代だった。
  • 第三章:『宇宙戦艦ヤマト』が明らかに「大日本帝国の復権」を描いているように読み取れるにもかかわらず、それが現代の韓国でナショナリズムを注ぐ器として受容されているように、「サーガ」は歴史から切り離されただけでなく現実の政治からも切り離され、それゆえに容易に「セカイ系」のごとく個人の内面と現実の「大きな物語」を結びつけてしまっている。
  • 第四章:自らのアニメが「サーガ」であることを否定した宮崎駿は、しかし「寓話」としての『トトロ』に高畑勲がぶつけてきた「現実」である『火垂るの墓』に対して、寓話を寓話として完成させることでその追求を振り切るが、「コクリコ坂から」においては自らが構築してきた「寓話」に敢えて「歴史」を混入させることを選んだ。

ということで、全体としてはこの「LST」という「異物混入」が、宮崎駿にとって(あるいは時代の流れとして)どのように必然であったかがおおよそ理解できるようになっています。そしてこの本の最後では、「大きな物語」の外に出てみること、「降りて」みることを薦めています。

こうして強引にまとめてみましたが、他にも「ルーシー・モノストーン」の仕掛けの詳細とか、『トトロ』と『火垂るの墓』の詳細な比較とか、Tumblrの美学は宮崎勤から始まっていたのだとか、企画段階の『ヤマト』がいかにして「大日本帝国の復権を描く物語」に変貌したかとか(これについてはこの記事と読み比べるとさらに面白いと思います)、「物語消費論」の過去原稿の再録とか読みどころがたくさんあるのでオススメです。まぁ大塚英志氏の著書を何冊か読んでいないと話がぶっ飛びすぎてついていけないみたいなことになると思いますが……。(最初の一冊として『キャラクター小説の作り方』はオススメです)

さて、表題の通り東浩紀氏についても書こうと思います。二人が対談した『リアルのゆくえ』で、大塚英志氏は「お前はエリートなんだから立ち上がって社会を変えろ」と東氏に何度もハッパをかけているんですね。そしてその後のhazumaについてはみなさんご存知の通り、『ウェブで政治を動かす』の津田大介氏と組んでゲンロン社を設立し社長になったわけです。「扇動されるな」の大塚氏に言われて東氏が「扇動する」側に回ったというのは大いなる皮肉のようであり、しかしそれも必然であったのでは、と思います。『コクリコ坂から』におけるLSTの手法がまさに「物語消費」の応用であったように、発信する/扇動する側にとってもはや「物語消費」は必須のテクニックだと言ってよいでしょう。だからこそ、「物語の構造」に対するリテラシーを受け手の側が身につけなければなりません。そのことについてあらためて考えることの出来る本でした。

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)